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ハルトムート・フラート
フランツ・シューベルトの歌曲創造
ファニー・ヘンゼル、フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディー、ロバート・フランツ、カール・レーヴェ、フランツ・リスト、リヒャルト・ワーグナーの歌曲
(太田晴子訳)
「フランツ・シューベルトと歌曲」というテーマに関して、少なくとも2つの通俗的な先入観/偏見があります。
1フランツ・シューベルトは「歌曲の王」である。
21814年10月19日に17歳のシューベルトが作曲した『糸を紡ぐグレートヒェン作品2』以降、「ピアノ歌曲の歴史」が始まる。
先入観というものの常で、これらの先入観は厳密な学問的検証に耐えるものではありません。けれども、このように単純化/簡素化されてみると非常にわかりやすく、そして一般化するのは間違えとしても、そこには多くの真実が含まれています。
フランツ・シューベルトの創作全体において歌曲が非常に多いこと、さらにその圧倒的な音楽的、美的なクオリティーの高さを鑑みれば、「歌曲の王」という言葉はまったく正当です。しかし、当時のジャンルヒエラルキー、つまり19世紀の人々が持っていた音楽ジャンルの序列において、歌曲は重要ではありませんでした。
シューベルトは一方では、歌曲にまがうことのない新しい特質を与えたことを自覚していましたし、友人や知識人の反響がその自意識を強固なものとしました。他方、大規模なミサ曲、オペラ、交響曲、室内楽曲の作曲家としてではなく、小さなジャンルの作曲家として「だけ」しか認められていないことは、彼の功名心を傷つけました。成果こそ様々でしたが、彼はそうしたジャンルでもちゃんと作曲していたのです。例えば良く知られているように、オペラでは不成功に終わりました。ちなみにフーゴー・ヴォルフも19世紀末に、歌曲作曲家として「だけ」しか認められていないことに苦しんでいました。
ベートーヴェンの場合、作曲上の実験の場はピアノ音楽でした。ここで彼は新しい音楽言語を試み、その後ほかのジャンルに転用したのです。シューベルトの場合は、はじめから歌曲が実験の場でした。そしてピアノソナタにいたる他のあらゆるジャンルにおいても、叙情的な歌曲性、さらに古典的で荘厳な詩(Ode)と古典歌曲の格調高い抑揚を見い出すことができます。さらに、むしろGesangあるいはモノドラマと呼ぶべき歌曲の、細かな、あるいは激変動を伴う心理的劇作法もまた、他のジャンルの劇作法へと転用されているのです。
「歌曲の王」か否か----歌曲というジャンルがシューベルトにとって最も重要である、ということはおわかりでしょう。そして歌曲と他のジャンルとの結びつきがシューベルトの場合ほど強い例は、J.ブラームスとG.マーラーに至ってふたたび見い出すことができます。歌曲が曲中に現れるのは、ピアノのための『さすらい人幻想曲』や『ます五重奏曲』、弦楽四重奏曲『死と乙女』の場合のように常に明白であるわけではありません。
最初の音楽例は、交響曲ハ短調「未完成」からト長調の副主題です。この部分はもちろん皆さん御存じでしょうが、ここで注意していただきたいのは、それが無言歌になっていて、そのやわらかく叙情的でゆらぎのない性格が中断され、ひっくり返され、打ち壊される、ということです。
皆さんここで、まったく予想もしなかったあるとても有名な歌曲との結びつきに気がついたでしょう。それはシューベルトが作品1として出版した「魔王」です。この作品は、ソロカンタータと、4人の視点から語られる歌曲(Rollen-Lied)が混ぜ合わされたものです。語り部、父親、息子、そして甘い誘惑と死の脅迫を無気味にとりあわせる魔王。彼は最後に何を歌うのでしょうか?「おまえを愛しているよ。おまえの美しい姿は私を刺激する。もしおまえにその気がないのなら、私は力を使おう。」
「未完成」の副主題をここで思い出して下さい。旋律の音程は同じです。
叙情から野蛮な暴力への激変ムそれは劇作法上、共通の核心であり、歌曲においては非常に簡潔にまとめられ、交響曲においては相応に拡大されています。さらに1つの伝記的な要素があり、それはこの『魔王』の引用を明らかに描き出します。交響曲は1822年に創作され、第三、第四楽章のスケッチがあるのですが、彼はこの運命の年に故あって作曲を断念しました。
その年、シューベルトの性病、つまり梅毒が発症し、その治療によってすべての髪を失ったのです。そのことから彼は公から退き、すべての遠大な計画を打ち切ることを余儀なくされました。この時から、自分はながくは生きられない、ということが彼にとって確かなことになったのです。そして私が思うに、『魔王』からの死へ導く誘惑の引用は、極度に悲劇的な意味を持つのです。
多くのシューベルトによる歌曲は他の作品へ引用されていて、そこには同様の伝記的な関係があります。このことに関しては、今後の講議でより詳しくお話いたします。以上で第1のポイント、つまり「歌曲の王」という先入観については終わりにします。これまでにわかったことは、歌曲というジャンルはこの作曲家にとって、非常に重要であるけれど、それはジャンルの枠を超えるものであるゆえ、歌曲ジャンルだけに限定して論じることは、彼の創作の多様性を見誤ることになる、ということです。
第2ポイントについて:
確かに『糸を紡ぐグレートヒェン』によってピアノ歌曲というジャンルは新たなクオリティーを獲得しましたが、それはこのジャンルの確立を意味してはいません。これに関して決定的なのはベートーヴェンが作曲したゲーテの詩によるいくつかの歌曲、特に連作歌曲
『 An die ferne Geliebte』
です。それまで「歌曲」というジャンルは、第一/第二ベルリン歌曲楽派の美的感覚に影響されていました。この楽派には例えば、ゲーテに評価されていたライヒャルトやゲーテの友人ツェルターが含まれます。ここでは明らかに詩が音楽を支配し、音楽の役割は単に、単純な旋律によって高貴で美しく、統一的な感覚をもたらすこと、韻律(Versmass)を正しく活かし、通例では均整のとれた周期的構造の有節歌曲形式を作り上げることでした。
ゲーテにとっては、彼の「高貴なる簡素noble simpicite/edlen Einfalt」
という考えゆえに民謡が第1の理想でした。彼があくまでも許容したのは、
感傷主義とSturmundDrang からの影響であり、しかしこれも音楽的には詩の流れを追うだけであるべきなのでした。ゲーテによれば音楽は、いわば風船、つまり熱気球のように、詩を軽く持ち上げて前に運んでいくべきなのです。
このような前提のもとでは、ゲーテがベートーヴェンの歌曲を理解できなかったのも不思議ではありません。なぜならベートーヴェンの作品は、詩と音楽の平等を出発点としているからです。つまり音楽は詩を解釈し、さらに韻律、抑揚に独断で干渉し得て、言葉と文成分をくり返し、そのうえ詩の一部分を省き、詩を散文に崩し、歌曲からモノドラマや場面を作るのです。手短に言えば、詩ではなく、作曲家による詩の解釈が中心となっているのです。そしてこのコンセプトを持って若きシューベルトはベートーヴェンに続いたのです。
シューベルトはゲーテを尊敬しており、彼の創作の頂点をなしているのは70曲以上のゲーテの詩による歌曲です。シューベルトはゲーテの詩で作った歌曲を小包に詰めて2回もワイマールに郵送し、献呈して「オリンピア」(つまりゲーテ)の関心をひこうと試みましたが、2回とも無駄に終わりました。
19歳のシューベルトが最初に送った作品のなかには、『魔王』『野ばら』
『MeeresStille』『糸を紡ぐグレートヒェン』のような名作も含まれていました。
再び私達は出発点に戻りました。つまり、今日まで音楽学者にピアノ歌曲の始まりについて語らせるきっかけとなっているこの歌曲(『糸を紡ぐグレートヒェン』)の新しさとは何なのか?ということです。重要なポイントのひとつは、明らかに表現の主観化/主体化の度合いです。それによって心理的に感情移入できるようになり、叙情性が強調されます。それに加えて特有の舞台的次元があります。そこでは内面の動きの反映として、みかけは表面的な事象が解釈されています。つまりピアノの右手は、糸車と糸巻き棒の途切れのない動きを強調し、左手は踏み込む足と機械の動きを明確に表現しています。
しかしこれは、ある動きのある光景を表した音画にしてはそれ以上のものです。シューベルトの詩の解釈は、主役の少女の落ち着かない内面的心理状態に向けられています。ベートーヴェンと比較して、これらすべてはまったく新しいことです。たとえシューベルトが詩と音楽の基本的な関係においてベートーヴェンを模範としていた、としてもです。音楽は「あらゆる哲学、宗教としての高度な啓示」であり、したがってあらゆる芸術の頂点に立つものである、というベートーヴェンの信念を、シューベルトも共にしていました。
作曲家として私は、『糸を紡ぐグレートヒェン』を作曲技法上、非常に重要だと思います。この曲は、徹底して保たれる層によって構成されているのです。シューベルトにとって歌曲は作曲上の新しさの実験の場であると先ほど話しましたが、ここでは(ジャンルを超えて使われる)作曲原理のことを述べています。この原理は多くの室内楽や交響曲、そしてミサ曲においてまで現れます。
もう一度この歌曲をお聴かせします。3つの層のそれぞれが、それ自体で意義深くまとめられていて、意味を持ってさらに展開していくこと、そして同時に、意味のある全体として広がっていくことに注意してお聴き下さい。さらに比較のために、シューベルトが人生最後の年に作曲したハ長調の大五重奏曲より緩徐楽章をお聴かせします。ここでもほぼ同様の層構造がみられます。
ここで様々なシューベルト像について考えてみたいと思います。つまり、どのようにこの人物と作品が理解され、そして解釈されたのか、ということです。シューベルト像は歴史の流れのなかで著しく変化します。それぞれの時代が別の新しい人物像を発見し、つまり「彼らの」フランツを繰り返し新しく作り、それにしたがって作品も新たに解釈されます。いくつかの例を挙げましょう。
歌曲王(彼はまさにベートーヴェンではなかった)--3人の少女のいる家 Der Dreimaederlhaus とFranzl (オペレッタ風のビーダーマイヤー絵画)--Franzl、自堕落なボヘミアの天才(周囲から孤立したサークルに属する孤立した芸術家)--居心地の良いシューベルティアーデときのこ(社交的で誰からも愛された)--教養のある反逆者Franz(弾圧の時代に政治的な反抗もした)--フェミニストFranzl(男性優位主義者ベートーヴェンとは正反対の立場をとった)--同性愛好者Franzl(密かな同性愛指向による悲劇と社会的弾劾)--シューベルト、孤独なよそ者(誰にも理解されず、死が刻み込まれたよそ者)-Franz、エディプスコンプレックスによる父親殺し(創作全体の解釈の手段としての心理学的分析)
これらすべてはばからしいほど矛盾しているようですが、私はあえてきつく、皮肉をこめてまとめました。もしこれら一つ一つの人物像が絶対視されるなら、それは間違えです。しかし、当時のシューベルト像は非常に多様であり、それ自体がずいぶんと矛盾していたので、ここに挙げた観点が真実を含んでいるとも言えなくはないのです。たとえそれを目下のところ信じたくないとしても。
ここで個々のポイントをより正確に説明し、それがどのようにシューベルトの歌曲創造に反映されているかを示したいと思います。もちろんこの短い概説のなかではキーポイントしか示すことができませんが、まだあと7回の講議があります。
1. 歌曲の王、シューベルト
これまでにわかったのは、シューベルトにとって歌曲というジャンルは量的にも質的にも非常に重要なものだったということ、このジャンルは他のジャンルに対しても重要になったこと、歌曲というジャンルは作曲上の実験の場だったこと、です。それにしても歌曲は「小さなジャンル」であり、シューベルトの名誉欲は当然のことながら、「より大きなジャンル」に固執しました。「歌曲の王」はたとえばフランツ・リストによって付された19世紀のカテゴリーであって、それが20世紀に至っても受け継がれたのです。この名付けの背景には一種の慇懃無礼な肩たたき(なぐさめ)が隠されています。君はベートーヴェンではないけれど、愛するフランツよ、歌曲を書くこと、これは君でもできる。
2. 『3人の少女のいる家』とFranzl*(*ウィーン方言でFranzのこと)
Heinrich Berte によるこのオペレッタは1915年にウィーンで作曲され
、1820年代のビーダーマイヤー的な視点が強調されています。当時の人は好んで個人的な穏やかな幸せへ、強制されながらあるいは自発的に、引きこもり、芸術的な小規模の絵画を描いたのです。(多くの方は C. Spitzweg の絵画を御存じでしょう。ただし彼の絵画では、描かれている対象への皮肉な距離がしばしば見受けられます。)ビーダーマイヤー的な描写の有名な例は、Grillparzerの詩による『セレナーデStaendchen』です。
3. Franzl自堕落なボヘミアの天才
「ビーダーマイヤー」は、奈落の上に浮かぶ穏やかで私的な幸福、そして外面だけ明るい世界として定義できます。1815年以降、オーストリアのメッテルニヒ政権下の厳しい社会的現実は、あらゆる自由な意見表明を圧迫し、しかも芸術界でも同じで、検閲局が公の生活全体を監視していました。フランス革命の理念は、さまざまな困難にもかかわらずまだ生きており、それはいたるところで危険とみなされたのです。ここには、シューベルトにも、この現実と向かい合う様々な可能性がありました。抵抗するか、あるいは圧迫から逃れようとするか。
ここでの逃避は、時代に適応できない知識人や芸術家たちのサークルの形成へとつながります。それらの人はのちにパリで「ラ・ボエーム」と名付けられますが、その起源はウィーンにあります。貴族社会の堅苦しい規律に人々は自由な行動/品行で抵抗し、そこには「多面的性志向」と呼べるものも含まれていました。シューベルトは外面的には無邪気な「Ludlamshoehle」や「馬鹿げた集いUnsinnsgesellschaft」のようなサークルに属していました。しかしこれらのサークルは警察にとっては危険分子で、これらの集まりは禁止されていました。
そしてウィーンのシューベルトの仲間たちの間にはまだ何かがあって、それはパリ、ロンドンでは後になって初めてみられることです。つまり、裕福な若者が自らを芸術作品として演出し、「ダンディ(洒落もの)」に生きたのです。ラヴェルやストラヴィンスキーではなく、シューベルトの友人Schoberや画家Kupelwieser達が初めてのダンディだったのです。さらにこの2人はシューベルトの歌曲の詩を作った人物でもありました。とても有意義だと思いますので、シューベルトとKupelwieserの絵をここで皆さんにお見せします。
4. 居心地の良いシューベルティアーデときのこ
公に大々的な演奏会を催す機会がなかなかなかったので、そのかわりに、演奏、食事、団らん、ゲーム、ダンスを楽しむ「シューベルティアーデ
Schubertiade」が様々な知人宅で行われました。ここでシューベルトはダンスのために演奏し、即興をしたのです。彼はここで即興した作品の多くを後に書き留めて出版し、成功を収めました。しかし個々のシューベルティアーデの中心となったのは歌曲で、時には一晩で30曲も演奏されました。
5. 教養のある反逆者Franz
「政治的なシューベルト」の再発見は、1968年に世界中で起きた反政治運動から生まれた成果の典型的なものです。冷酷で凝り固まったこの時代との類似が見い出され、それによって初めて『冬の旅』などにあらわれる数多くの政治的なあてこすりが理解されたのです。この詩の作者 Wilhelm Mueller もまた、当時のギリシャの自由化運動を情熱的に指示したために「ギリシャ人ミュラー」として有名でした。
シューベルトの友人であり作詩家のMayrhoferが古典的なテーマを選んだ時(それがシューベルトの指示によってだとしても!)、知識人であることを単に示しているのではなく、わかる人にはわかるような、その時代に対する比喩的あるいは象徴的な陳述が隠されているのです。これについては講議で詳しくお話します。
もちろん、内輪のサークルやシューベルティアーデ(ここでは新しい文芸作品や政治についても討論されました)で、このような作品を上演することは、危険ではありませんでした。
ところで、まさにこの時代に詩人Franz Grillparzer
がベートーヴェンの口述筆記帳に書き込んだ有名な言葉があります。「もしウィーンの検閲官がもっと音楽的だったらなら、第9交響曲はすぐに禁止されただろう。」
シューベルトは単に作曲家だったのではなく、詩や散文を書き、日記もつけていました。《民衆への嘆き Klage an dasVolk》 という詩において、
当時の無力について書いています。
芸術よ、おまえだけがまだ許されている権力と行為の時代を描くことを
苦悩を少なからず和らげるためにこの苦悩は芸術と運命を決して和解させはしないここで《冬の旅》より『勇気Mut』をお聴き下さい。この曲は、人間の健全な自律へがむしゃらに訴えかけます。最後の2行について検閲官は何を思うでしょうか?
もし地上に神がいないのなら
僕たちが神になろう
6. フェミニストFranzl
シューベルトのこの性質は、80年代にアメリカのフェミニズム音楽学者、とりわけSusan Mclary によって見いだされました。そうして男性優位主義者ベートーヴェンとの対置が行われたのです。ベートーヴェンは、証拠が示すように、音楽上の細かい、個人的なところにこだわらず、特に叙情的な副主題に関して、独自の制圧的美学に基づいて、乱暴ともいえる壮大な形式を構築しました。
ここで彼の間違った全体像への正しい観察をまとめてみます。
ベートーヴェンはW.v.Humboldt や Goethe がそうであったように、
芸術家は男性的な性質と女性的な性質の両方を同等に持たなければならない、それによって芸術家は人類の全体像を描くことができるのだ、という意見でした。シューベルトが作品の叙情性に満たされた瞬間を、全体の形式よりも重んじているのは、私が思うに、それは「女性的性質」の証というわけではないと思います(これは女性が典型として使う、男性的な決まり文句のようですが!)。そうではなくて、社会的に無力な主体のしるしなのであり、エトス(気風)を携えた壮大な構造ではこれがうまくいかないのです。
ベートーヴェンの強力で超越的な訴えかけは、しばしば神経にさわります。しかしこれは音楽の「女性的要素」からの抑圧とは関係なく、革命を駆け抜けた自由を求める情熱と関係しているのです。シューベルトが(モーツァルトもそうであったように)、女性心理や女性の性格、振舞いに対して信じられないほど繊細な感覚を持っていたことを、とても多くの彼の歌曲が示しています。しかし忘れないで下さい。歌詞も男性が書いたのです!
7. 同性愛好者Franzl
シューベルトの人物像と作品がどの程度に同性愛傾向を示しているか、ということはこの10年来やっと公に議論されています。先程述べたウィーンのサークルや、シューベルトの仲間たちのあいだで同性愛が、密やかにであれ、あからさまにであれ、存在していたことは確かです。しかし同性愛は社会的に弾劾されていて、しかも罪にもなりました。友人たちの中では
Mayrhoferが明らかにホモで、Schoberと画家Moritz von Schwind
は少なくともバイセクシャルでした。そしてシューベルトは何年もSchober
やMayrhoferのところに住んでいたのです(ちなみにMayrhoferは自殺してしまいました)。
以上を鑑みれば、シューベルトはこのような性志向とは関係がなかった、と主張するのはばかげているといえるでしょう。オーストリアでは今日でも頑固にそう主張され続けているのですが。しかし英語圏ではMaynard Solomon、ドイツではChristoph Schwandt
がしているように、シューベルトをすぐにホモとみなすのも、視野が狭いといえるのではないでしょうか。当時多くの人がそうであったように、シューベルトには多面的な性傾向があって、その性衝動は「男」も「女」もはるかに超えていました。より詳しく知りたい方は、シューベルトがぴったりに作曲したゲーテの《ガニュメデス》をじっくり観察してみて下さい(もし御希望であれば、今後のゼミでも扱います)。
暴力的な少年愛は『魔王』のひとつの動機であり、『ミニョン』では強度の少女愛への傾向が見られます。彼が梅毒を Graben-Nymphe
(ウィーンの娼婦街)でうつされたのか、あるいは(Christoph Schwandt が推測するように)街中で知られていた女装主義者にうつされたのか、は明らかにできません。
19世紀の2番目に偉大な歌曲作曲家ロバート・シューマンも同じく梅毒で死に、同じく多面的性傾向をもっていたことを考えて下さい(ちなみに妻のクララも子供達もそれを矯正しようとはしませんでした)。今日まで明らかでないのは、若く美しいJ.ブラームスにより強い恋心を抱いたのは誰か、ということです。つまり、クララなのかロバートなのか。
これで、初めて直接に性的なものと関係したのはジャズやロックンロールではない、ということがわかりました。
8.シューベルト、孤独なよそ者
シューベルトは「大都市の子」と実際に呼べる音楽史上最初の作曲家でした。故郷の喪失、よそ者としての存在、さすらい、孤独のモチーフの多くは、当時シューベルトが詩人たちと共にしていたような一般的な生活感情を表しているだけではありません。それらはまた、家庭における関係の欠如だけを表しているだけでもありません(というのも、母親は早くに亡くなり、父親とは折り合わず、兄弟とも疎遠だったのです)。
ここでは確かに、根(よりどころ)の喪失、社会学のカテゴリーでいうところの「孤独な人々lonely crowd」
というものが、重要な意味をもっているのです。このよりどころの喪失感は、友人グループやサークルによっても埋め合わせられませんでした。1920年、30年代にTheodor W. Adorno が書いたシューベルトについてのエッセイによって、このような連関は、音楽分析上でも非常に重要な事柄となりました。
シューベルトは自分をよそ者として認識していて、それゆえに、各種のアウトサイダーを表現する歌詞、さらに社会から追放された存在を描く詩に親近感を持ったのです。ここでは Schmidt von Luebeck の詩による『さすらい人 Der Wanderer』
だけを例として扱いますが、他にも、Wilhelm Mueller の詩による『美しき水車小屋の娘』や『冬の旅』、後期作品ではHeinrich Heine
の詩による『アトラス』などがその例として挙げられます。
さらにここには死の動機が密接に結びついています。1811年、14歳のシューベルトはすでに、"Hagars Klage”"Leichenfantasie”
という死を予感した歌曲を書いています。彼の母親は1812年に死にました。声楽曲であれ器楽曲であれ、死の音楽は多数あります。そして『未完成』交響曲を断念し、死を自覚した運命的な年、1822年についてはすでにお話した通りです。
ここで、故郷喪失による流浪と、死を結び付ける音楽的現象についてお話いたします。歌曲においてもピアノ幻想曲においても、非常に特徴的に用いられているので、音楽学が「さすらい人のリズム」と呼ぶリズムです。
中立的な立場をとれば、これはダクテュロスだと言えます(つまり、長‐短‐短、ここでは4分音符‐8分音符‐8分音符、あるいは2分音符‐4分音符‐4分音符)。もっともダクテュロスは音楽的には、付点つき、あるい付点なしの三拍子でも表現され得ます。
この「さすらい人のリズム」は、単純なダクテュロスをはるかに超える意味を持っています。別のある有名な作品を聴いてみましょう。『死と乙女』です。そしてシューベルトが弦楽四重奏に編曲したものも聴きましょう。
さて「さすらい人のリズム」は、死のリズムなのか—あるいは両方を意味するのか—それとも意味など全く持っていなくて、単に長‐短‐短のダクテュロスなのでしょうか?これを解明するためにもう一曲聴いてみましょう。
そうです、これはシューベルトがとても好きだった、ベートーヴェンの交響曲第七番の緩徐楽章です。この交響曲の各楽章は、1つあるいは複数のダンス型を備えているので、ここでどのダンス型が扱われているのかを、考えなくてはなりません。16世紀に生まれたゆっくりとしたダンス、パヴァーヌがここでは重要です。、パヴァーヌはベートーヴェンとシューベルトにおいては葬送行進曲である、としばしば本に書いてあるのですが、これはまったく間違えです。死の音楽とするなら、パヴァーヌは様式化された荘重な死の踊り、と解釈され得るでしょう(ちなみにこのことは、有名なラヴェルのパヴァーヌにも当てはまります)。
ここでさらに、アメリカ人 George Crumbが1970年に作曲した弦楽四重奏曲"Black Angels”より「涙のパヴァーヌ Pavana Lachryme」
を聴いてみましょう。これはヴェトナム戦争に関連して作曲されました。
9.Franz、エディプスコンプレックスによる父親殺し
シューベルトの散文「私の夢 Mein Traum」
は物語と心理学的記録の混合物です。フロイト学派の心理学者にとって、エディプスコンプレックス的な父親との関係に関する貴重な資料です。父権とのエディプスコンプレックス的な関係は、シューベルトの場合、国家権力と教会権力との関係にも向けられます。これに関する多くの証拠が、ミサから歌曲に至るまでの作品中に示されています。まったく驚くべきことに、シューベルトは14歳にしてすでに、『父親殺し』という歌曲を作っているのです。それはこのように美しく始まります。「ある父親が息子の手によって殺された…」
ここで、この散文の一部を朗読したいと思います。これは運命の年1822年のすばらしい記録となっています。
「あるとき父が僕たちを食事に連れて行った。弟は大喜びだった。でも僕は悲しかった。父が僕の前に立ち、おいしい食事を楽しむよう命じた。でもぼくはそれができなくて、憤慨した父は僕を追い払った。ぼくはきびすを返し、同じように食事を拒む者への尽きない愛を胸に抱いて、遠くへとさまよった。
そこに母の死の知らせが届いた。彼女に会うために僕は急いだ。悲しみでまるくなった父は、僕が家に足を踏み入れることを拒まなかった。僕は彼女の亡骸を見た。目から涙がこぼれ落ちた。
この時から僕は再び家にとどまった。そうしたあるとき、父はまた僕を彼のお気に入りの庭へと連れて行った。気に入ったかと尋ねて来たが、僕にはその庭はとても不快だった。あえて何も言わないでいたら、興奮して同じことをきいてきた。庭は気に入ったか?僕は震えながら否定した。
そうしたら父は僕を殴ったので逃げた。またもや僕はきびすを返し、同じように庭を拒む人への尽きない愛を胸一杯に抱いて、再び遠くへとさまよった。歌はもうずいぶん長く長く歌った。愛を歌おうとすると、それは苦悩となった。そしてまた苦悩を歌おうとすると、愛となった。こうして愛と苦悩は僕を散りぢりにした。
シューベルトの歌曲創造のほとんど全ての基本動機がここに暗示されているのがおわかりでしょう。追放、よそ者、苦悩、さすらい、死、父権とその規範との葛藤(ここでは、食事と庭がその規範を象徴している)、反権力サークルとの共感(つまり、規範を拒む者への尽きない愛)。
シューベルトによる、ゲーテの『プロメテウス』への的を得た曲付けは、見かけは非常に強力な父親(父なる神、ゼウス)への、勝利を意識した息子(人間に自律を備えさせたプロメテウス)の挑戦、として解釈されてもよいでしょう。これについては今後の講議で分析します。
国家権力との最も激しい衝突は、シューベルトが、友人かつ作詩家である
Johann Senn
と共に逮捕された時に起きました。シューベルトはいずれにせよ再び釈放されたのに対し、Sennは一年間勾留された上、ウィーンから追放されたのです。Sennの詩による歌曲を、少なくとも一つは今後の講議で取り上げたいと思います。
シューベルトの反権力な、「父親殺し」の基本姿勢は、誰も思いつかないような大きなジャンルに、劇的な影響を及ぼしました。つまりミサにおいてです。"Credo”では、様々な作曲家が歌詞の様々な部分を省略して用いています。例えばシューベルトのミサにおいて、「聖なるカトリック教会 una sancta catholica」
という言葉は、絶対に現れません。以前シューベルトの多面的性傾向を否定した、オーストリアのある音楽学者は、このような省略はそれほど珍しいことではなく、それどころか、教会から支持されていた、ということを証明しています。このこと自体は正しいです。けれども、何かもっと重要なことを見落としています。まずモーツァルトのハ短調ミサより"Credo”の始めの部分を聴き、それからシューベルトの変ホ長調ミサより同じ箇所を聴いてみましょう。
何に気がつきますか?PATER OMINIPOTENS、
つまり全能なる神という言葉が欠けているのです。そしてこの言葉は、シューベルトの他の全てのミサでも省略されています。しかし、彼の大規模なミサは当時一度も上演されなかったので、したがって国家や教会の権力との争いも存在しえなかったのです。
長い概説もこれで終わりです。情報を詰め込み過ぎでなかったのなら良いのですが。でもこの講演をもっと根本的に掘り下げたり、補足するために、あと7回の講議があります。皆さんに強くお願いをしますが、講議のあいだいつでも質問をし、また批判もして下さい。
どうもありがとうございました。
(訳:小岩恭子)